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ものとりの日々

秋田市在住・小西一三の書きたいこと書くブログ

漁師廃業? なんてこったい!

 小西は漁船に乗って漁の様子を見るのが大好きだ。今まで日本海の底引き漁船やノドグロの延縄、マグロの定置網、紅ズワイガニの籠漁、ヌタウナギの籠漁、ミズダコのタコ箱漁、イカ釣り漁などなど、あまた多くの漁船に乗せてもらい、漁の様子を取材してきた(実際ほとんどは漁の様子を見ながら酒を飲んでいた)。

 これらの中で一番多く乗ったのはイカ釣り漁船。九州や北海道、岩手や青森などから秋田沖にやってくる各地方のイカ釣り漁船に10回以上は乗っている。時にはカッパを着て手伝いをし、朝水揚げした後は船内で一緒に酒も飲んだ。こうなれば、もう友だちだ。秋田沖の夏イカの季節は「小西さーん、○○丸ですよー。明日の朝5時、秋田に入港しますよー」なんて船舶電話がよくかかってくる。入港時間に港に行くと「やーやー久しぶり。朝ご飯、食べて行きなよ」と誘われ、船内の狭い食堂で食事をしながら漁の話をあれこれ。帰りにはイカをたんまり土産として貰ってくる。そんな多くのイカ釣り漁師の中で一番付き合いが長いのは岩手県山田町の漁師のNさんで、25年以上になる。船は第十八稲荷丸、9.9トンの小型漁船だ。

 20年ほど前から秋田沖にはやって来なくなったが、地元の三陸の海でイカはもちろん、イルカのつきん棒漁、タラやマスの延縄、ウニやアワビ漁など一年を通してさまざまな漁を行なってきた腕のいい漁師だ。秋田に来なくなってからは小西が山田町まで毎年のように出かけ、船に乗ったり番屋で酒を飲んで泊まったりと、今も大変お世話になっている。

 4年前の東日本大震災で山田町も大きな被害を受け、Nさんの家族とも1週間ほど連絡がつかなく心配した。9日目にやっと連絡がつき、震災から10日目の3月21日にはお見舞いの品物を積んで山田に行ってきた。道沿いには瓦礫が散乱し、道路にはヘドロも堆積していた。船は津波が来る直前に沖に逃げて無事。半分壊れかかった岸壁に係留されていた。震災直前、山田湾には16隻のイカ釣り漁船があったというが、津波に飲み込まれるなどして、無事だった船はたったの2隻。その中の1隻が稲荷丸だ。

 「あの日は急いで船に乗って沖に逃げようとしたけど、湾の出口はすさまじい潮の流れで、大きな渦巻きができたのす。エンジン全開でも船はまったく前に進まない。もうダメかと思った。偶然沖に向かう潮に乗れたから助かったけどなあ」と船頭のNさんと弟の機関士。兄弟はカップ麺をすすりながら2昼夜沖で過ごしたという。

 自宅も高台にあり無事だったが、海沿いにある倉庫兼番屋は流されて、集魚灯も自動イカ釣り機も含めてその他全ての漁具を失ってしまった。Nさんは「もう70歳も過ぎてしまったし、今さら借金をして機械を買うのもしんどいので、沖の漁は止める」と力なく語っていた。一緒にいた奥さんも「よその人は頑張れ、頑張れって言うけど、もう年だし頑張らなくてもいいからとお父さんには言ってるのよ」と言い切った。

 それから半年後、「小西さーん、なんとか機械を買って10月から漁を始めるから。また、いつでも乗りに来てよー」と嬉しい連絡があった。実は小西は年末になると車で片道5時間かけて山田町までイカ釣りに行くのが恒例行事になっていた。狙いは「冬至のスルメ」だ。冬至の頃の三陸沖のスルメイカは大型で身が厚く、ワタ(肝)もパンパンに張り、塩辛や沖漬け、生干しを作るには最適のイカだ。ただし、冬至の頃の大きいイカは機械にはなかなか食いつかない。

 こうなれば手釣りの技で勝負する。「なんぼコンピューター制御の自動イカ釣り機でも、人間の技には負けるなあす、フフフ」とNさんは手釣りの技と道具を自慢したものだ。実際、機械がなんとか1パイ釣り上げる間に高齢の乗組員は10〜20パイは釣り上げるのだから、その差は歴然だ。

 12月の三陸沖は冷たい風が吹き荒れる。カッパの下にはセーターを重ね着し、頭には毛糸の目出し帽。そんな格好で、揺れる甲板の上から棒状の疑似針3本直結の仕掛けを投げ入れ、一晩中、腕を動かし続けるのはかなりしんどい。疑似針には胴長30センチ近くの大型のイカが次々にかかり、3本全てにイカがかかった時の重さもかなりのものだ。小西でも200パイ近くは釣るが、Nさんら本職の漁師は小西の数倍は釣る。釣ったイカの一部は沖漬けにしたり、生干しに加工して持ち帰る。

 沖漬けは容器に醤油と酒、味醂を入れ、その中に釣った直後のスルメイカをぶちこむ。イカはタレを吸い込み、「キュッ、キュッ」と鳴きながら苦しそうにタレとスミを吐き続けるが、やがて絶命する。

 自宅に持ち帰った沖漬けは容器ごと庭の雪の中に埋め、低温でじっくり味を染み込ませる。約3日後、身がアメ色になったところで容器から揚げ、ビニール袋に入れて冷凍庫へぶち込み、やっと完成となる。毎年、50パイ近くの沖漬けを作っているが、家族の口に入るのはほんのわずか。ほとんどは友だちや知り合いに配ってしまうからだ。

 秋田市から太平洋沿岸まで雪道を5時間走り、寒風吹きすさぶ海の上で鼻水を垂らしながらイカを釣り、再び雪道を5時間走ってなんとか自宅までたどり着く。「容易でねえ、しんどい、疲れる。今年はどうしようかなあ」と言いながら、ほぼ毎年山田通いを続けてきた小西は本当にバカである。

 

 ところが、ところがである。今年から山田に行かなくてもいいことになった。いや行けなくなってしまったのだ。先日Nさんから電話がかかってきた。

 「小西さん、船がやっと売れたから。漁師を廃業したけど、山田には遊びに来てよ」

なんてこったい。実は去年から船が売れたら漁師を廃業したいという話は聞いていた。「年々、身体がしんどくなってきた。夜通しイカ釣って、箱に氷を敷いて、イカを並べて、港に水揚げ。誰か1人でも若い者がおれば楽だけど、私ら3人の平均年齢は73歳。もう限界だなあ」。

 山田町はかつて「イカの町」と呼ばれたほどイカ釣り漁業が盛んで、湾内には数十隻のイカ釣り漁船が係留されていたという。それが震災前には16隻、震災後には2隻、そして残りはたった1隻になってしまった。その1隻でさえ、いつまで漁を続けるかは分からない。

 Nさんには2人の息子がいるが、誰も漁師を継がずサラリーマンになった。Nさんも漁業の将来には悲観的で、子どもたちには漁師を継げとは言えなかったという。

 船は隣り町の漁師に売却が決まり、多少改造して今後はタラ延縄漁船として使われることになったそうだ。

 近々、山田町まで出かけて漁師さんたちと酒を飲みながら二十数年にわたるお付き合いの反省会をしたいと思っている。 

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友、遠方より自家用機で来る

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 「おう、小西、ワシや。元気か?」 浪速のおっちゃんから電話がきた。「はあ、一応元気ですけど」と応えると、「明日はヒマか?」とおっちゃん。「毎日ヒマですけど」と応えると、「じゃあ、明日、行くわ。到着時間は飛ぶ前に連絡するわ。じゃあな」。おっちゃんからの電話はいつもこうだ。
 おっちゃんとは三十数年前に大阪で知り合った。複数の会社を経営している社長のはずだが、現在の業務内容はよく分からない。年齢もよく分からない。小西は興信所ではないので、つっこんで聞いたことはないし、知りたいとも思わない。

 翌日の10月24日の午前中、また電話がきた。「おう、小西。秋田空港は改装工事中で駐機できんそうや。お前の家から大館能代空港は遠いんか?」とおっちゃん。「車で1時間半ほどですけど、来るんだったら迎えにいきますよ」と小西。「そんなに遠いんか。すまんな。じゃあ、行くで。2時間ちょっとで着くからな」

 

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午後2時半頃、おっちゃんの小型飛行機が到着し、おっちゃんと奥さんが降りてきた。着ているものは小西と同じユニクロのチノパンに、これまた安そうに見えるデニムのいシャツ。奥さんも似たようなかっこうだ。どうみても30代の頃から飛行機を所有している社長には見えない。どちらかといえば、タコ焼き屋のおっちゃんだ。

 夜はもちろん秋田市内の魚のおいしい飲み屋で一杯。「おう小西。今日、魚食ったから、明日は肉食いに行こう。札幌にな、朝鮮人がやってるジンギスカンの旨い店があるねん。生のラムをな、カンテキ〈七輪〉で焼いて食わせるねん。金の心配はせんでええ。ホテルもワシが予約するわ」とおっちゃん。さっそく奥さんがネットで店の近くのホテルを探したが、土曜日なので満室。結局、翌日、函館まで日帰りで「函館ラーメン」を食べに行くことにした。 

 大館能代空港から函館空港までは、おっちゃんの飛行機で約40分とか。10時頃には離陸。管制官とのやりとりはもちろん英語だ。自称、高卒のおっちゃんはぺらぺらしゃべっているが、一応大卒の小西には意味不明。若く見える奥さんはボタンを押して計器の数字を確認したりと、これまたかっこういいのである。おっちゃん夫婦は前の操縦席に座っているので、小西は4人分の座席を独り占め。これまた気分がいいのである。

 

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白神山地を越え、岩木山を横に見おろし、アッという間に津軽海峡。「はーるばる来たぜ 函館~」と函館に到着。750円のラーメンを食べて、再び離陸。おっちゃん夫婦は小西を大館能代空港で降ろし、「小西、春になったらまた来るからな。それまで死ぬなよ」と捨て台詞を残し大阪まで帰って行った。

 小西の友達はほとんどビンボ人だが、こんな酔狂な金持ちもいるのである。

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「どぶろく」は密造酒だ

 先日、妻がFBに「どぶろく」のことを書いていたが、あれはボクがもらったもの。1カ月ほど前に手に入れたものだが持ってきてくれた人が「まだ若い」と言っていたので10日ほど寝かせてから飲み始めた。個人的には、ちょっと酸っぱくなり始めの頃が好みなので、どんぴしゃのタイミング。おいしいと思えるどぶろくだった。

 先日も某飲み屋で上澄みを飲んだが、それも酸っぱくなりかけでおいしかった。今シーズンは5、6回、どぶろくを飲んでいるが、どれも当たり。今のところ、失敗作には出会っていない。今年は半端なく寒いので、どぶろく造りには適した気候なのかもしれない。

 ところで酒屋が造っている白濁した酒をどぶろくと呼ぶ人もいるようだが、あれはただの「濁り酒」。どぶろくとはあくまで密造酒で、御上の目を盗んで造る酒のこと。違法な酒だと小西は理解している。だから御上に申請して許可を得て造る、「どぶろく特区のどぶろく」はどぶろくではないと思っている。大体、どぶろくを造るのに白衣に白い帽子をかぶり、「衛生管理には十分に気をつけています」なんていうのは、どぶろく精神に反する。しかもピカピカに磨かれたステンレス容器で造るなんて、もっての他。あくまで小屋の片隅など人目につかない場所で瓶を使って密かに仕込むべきである。

 最近はどぶろくを造るより、手間を考えれば清酒を買った方が安上がりと、造る人も少なくなってきた。それでも「おめの造ったどぶろくだば最高だ」なんておだてられ、その気になって造り続けるばあさんもいるが、おいしいどぶろくは年々手に入りにくくなっていることは確かだ。昔ながらのどぶろくは今や絶滅危惧種?になりつつある。「今のうちにしっかり舌に記憶させておかねば」ということで、せっせと飲み続ける今日この頃。飲みながら、ちょっと笑えるどぶろくにまつわる話を思い出した。

 その一。県内の某町長が中央官庁に陳情に行く時に手土産として持参したどぶろく。

 確かバブルの頃で、官僚たちの元には全国から珍しくて高価な贈り物が集まったに違いない。そこで町長は考えた。「地元産で、都会ではなかなか手に入らないもの、珍しいもの」。それがどぶろくだった。造ったのは「あの男は何をやらせてもダメだけど、どぶろく造りだけは上手」と言われる町長のお友だち。

 一升瓶に詰めて町長宅に保管していた中から友だちが1本失敬して持ってきてくれたが、さすが町長お抱えのどぶろく師。かすかに酸っぱく、優しくまろやかな味がしたのを覚えている。今想うに、今まで飲んだ中の最高傑作だったかもしれない。ちなみに町長は一升瓶に稲わらの栓をして東京まで持って行ったとか。普通の栓をしたらガスが溜まって、途中で栓がポンを飛んでしまうからね。どぶろくとは関係ないが、町長はその後の選挙で落選。

 その二。役場の職員たちが造ったどぶろく。

 秋に行なわれる新米の検査ではサンプルとして持ち込まれた全ての米袋から少量の米を抜き取る。役場職員たちは検査の手伝いをしたが、検査終了後、手元にはけっこうな量の米が溜まる。職員は全員農家で米は余るほどある。「この米、なんとするべ」。そこで米の有効活用としてどぶろくを造ることになったそうな。

 どこで仕込んだかは聞かなかったが、でき上がったどぶろくの一部は一升瓶に詰めて、大胆にも役場の物置に保管。「小西さん、どぶろく飲むんだったら、役場まで取りに来て」。さすがに仕事中の役場からどぶろくの入った一升瓶をぶら下げて出るわけにもいかず、大きな段ボール箱に入れて運び出した。造った職員の中には税務担当もいたというから笑ってしまった。ちなみに、そのどぶろくは余り美味しくなかった。

 その三。学校の先生たちの宴会のためにどぶろくを用意した。

 これは某高校の先生からの依頼。「東北の先生たちが集まって研修会をするけど、会の後は当然飲み会。秋田といえば、やっぱりどぶろくだすべ。少しでいいから、どぶろく手に入らない?」ということで、回り回って小西に依頼がきた。学校の先生が、法律で禁止されているどぶろくを飲むというのも面白い。という訳で友だちにお願いして鳥海山のふもとで仕込んだどぶろくを手に入れて届けてやりましたよ。人様に渡すどぶろくだったので味見はしなかったが、どうだったろう。後日「みんな喜んでました」と報告を受けたけど、味についてのコメントはなかった。

 言っとくけど、小西はどぶろくのブローカーではないので、このブログを見たからといって、「俺にも分けてくれ」なんて要求しないようにね。

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香典20万円

 先日、小中学校時代の友だちの父親の葬式に行ってきた。友だちの家は大きな農家で、ボクが遊びに行っていた頃は豚や鶏を飼っており、生き物のいなかった我家からするとうらやましい環境だった。さらにうらやましいことに秋田犬を飼っており、ボクにもよく尻尾を振ってくれる愛想のいい犬だった。

 ある日「そんたに犬っこが好きだったら、今度子犬が生まれるから、好きなの持っていってもいいよ」と親父さんが言ってくれた。親父さんは今でいうブリーダーで子犬を売って小遣い稼ぎをしていたようだった。当時、秋田犬1頭いくらだったかは分からないが、母犬は品評会にも出るほどの犬。その子犬をただでくれるというから、舞い上がってしまった。犬を飼うことに強く反対していた母親だったが、しつこくお願いしてなんとか許しをもらった。

 生まれたのは確か5、6匹。その中から一番元気でコロコロ太った犬をもらうことにした。「本当にその犬っこがいいんだが?」と親父さんは何回も念を押したのを覚えている。「うん、絶対この犬っこがいい」と連れて帰ってきた。その子犬は大きくなるにつれて毛が長くなり、普通の秋田犬より大きくなった。いわゆるムク毛の犬で、秋田犬の正統派ではない。青森県鯵ヶ沢で有名になった秋田犬「わさお」と同じタイプの犬だった。「イチゾウ、おめの犬っこだばライオンみてえだな」と言われたほどだ。今になって思えば見る目がなかったということだが、後悔はしていない。

 「モク」と名付けたその犬は1歳になる前にジステンパーにかかり生死の境をさまようも、なんとか生還。それまでは賢い犬だったが、高熱が続いたためか頭が多少パー太郎になってしまった。家族には従順だったが、家族以外には猛烈に吠え続け、いくら言い聞かせても吠えることは止めなかった。番犬とすれば最高だが、初めて我家に来た人は犬が恐くてなかなか玄関から中には入ってこなかった。「モク」にはいろいろな想い出がある。ボクが高校を卒業して東京に出てからは、世話をするのは母親だったが15歳まで生き続け、晩年は吠えることもなく静かに亡くなった。 

 さて本題に入る。小西一三、今まで数多くの葬式に参列してきたが、先日の葬式の弔辞には本当にビックリしてしまった。

 そのおっさんは遺影の前に立ち、しばし無言。感極まってすすり泣き始めた。普通、弔辞は胸のポケットから弔辞を書いた紙を取り出して読むのだが、おっさんは何も用意していなかった。

 呼吸を整え、突然語り始めた。「○○さんが亡くなったと聞き、私の96歳になる母親に『香典なんぼ包めばいい?』と聞いたところ『20万円』と答えました」。弔辞の最初の言葉がこれ、型破りの弔辞である。香典が20万円。決して裕福そうには見えない、70歳前後に見える普通のおっさんである。その後もすすり泣きながら語り続けた。この母と子が亡くなった○○さんにいかにお世話になったか。○○さんは、いかに優しい人であったかを、遺影に向かって話しかけるのである。「ありがとうございました」「あなたがいなければ、私たち親子は生きることができませんでした」等々、いかに世話になったかを切々と語り続けた。たぶん、このおっさんの母親という人は戦争未亡人に違いないと思った。

 秋田犬をただでもらったから言う分けではないが、確かにあの親父さん、優しかったもんなあ。親父さんの思い出が改めて甦ってきた。

 最初から最後まですすり泣きながら弔辞を述べたおっさんは遺影に向かって深々と頭を下げ、うなだれながら自分の席に戻って行った。

 型通りの弔辞を聞き慣れた身にとって、最初に「香典20万円」。この型破りのインパクト。小西は感激した、久々に参ってしまった。

 葬式に出て良かった良かったと思った。

 

底引き漁船

先日、仕事半分、遊び半分で底引き漁船に乗ってきました。県内の某漁港から出港したのは午前3時。漁場に到着するまでは船室で他の漁師さんと一緒に仮眠をとります。

前日までのシケで沖はけっこう大きなうねりがありましたが、ワタクシの場合は船酔いの心配はなし。どうも三半規管が狂っているようなので酔わないのです。午前6時、漁場に到着。漁師さんは船室を飛び出して行きましたが小西はそのまま仮眠。なんたってワタクシはお客様待遇なのです。

最初の網が揚がったところでカッパを着込んで甲板に上がって魚のチェック。タラ、ズワイガニ、アマエビなど、美味しそうな魚がそこそこ。海上が明るくなってきたところでカメラを取り出し、撮影開始。素手でシャッターを押すので指があー冷たい。こりゃやってられないと、数枚撮ったところで午前中の仕事は止め。再び船室に戻ってガスストーブでヌクヌク。体が温まったところで、今度はブリッジに上がり、船頭とあれこれお話。そのうち、「小西さん、朝飯できました」と若い漁師が声をかけてくれました。

ご飯に味噌汁。味噌汁の具はガサエビでした。このエビはアマエビより色は悪いものの、味は数段上。2人の漁師はほとんどガサエビには手を付けず。「小西さん、エビ捨てるのもなんだがら、全部食って下さい」と若い漁師。ワタクシは一人船室に残り、ガサエビを食べ続けたのでありました。

食後、やることがないので再び甲板に上がり、少々お手伝い。魚を選別するのです。選別しながらアマエビの殻を剥いて口の中にポイ。何度も書いたと思いますが新鮮過ぎるアマエビは硬いだけで甘みはなし。やはり1日2日は寝かせた方がいいのです。折れたズワイガニの足があったので、殻を剥いて口の中にポイ。ねっとりした食感でそこそこ美味しいのだが、カニはやはり火を通した方が美味しい。続いてボタンエビの殻を剥いて口の中にポイ。これは美味しかった。

体が冷えてきたので再びブリッジへ。船頭と話をしていたら「小西さん、昼飯ができました」とお迎えが来ました。昼の味噌汁にはタラがどっさり。まあまあ、美味しゅうございました。午後も少々写真を撮って、自分の仕事は終了。暇なので、出刃包丁で小さなタラの頭を落として箱詰め。小さなタラは商品にならないのでそのまま海中に捨てるのですが、もったいない。だから頭を落として自宅に持ち帰り、さっと干して冷凍しておくのです。

港に帰ってきたのは午後6時。お土産をたくさん貰って帰ってきました。ワタクシは果報者です。

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水深は250メーター前後。海底から網を巻き上げ、甲板で網を開く。魚を種類別、サイズ別に仕分けする。いろいろな魚がいて面白い。作業しながらボタンエビをペロリとすることも。

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アマエビ。今の時期は腹に卵を抱えている。本当はもっと鮮やかな赤だが、小西は写真ヘタクソなのでこの程度。 

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タラ。水圧の急激な変化で目ン玉や胃袋が飛び出る。ダダミ〈白子〉を抱えているオスは高く、メスは安い。ちなみにメスはオスの半値以下。産卵後のものは、ミズダラ、ボウダラ、ゲダラとも呼ばれ超安値で取引される。

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体調1メーターほどのアブラツノザメ。刺身が定番だが、天ぷら、味噌漬けにして焼いたものも美味しかった。 

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ズワイガニ。秋田県南部でははタラ場〈タラの漁場〉で獲れるのでタラバガニとも呼ばれていた。上質のものは山陰、北陸などに出荷され、マツバガニ、エチゼンガニとして販売される。 

イカの沖漬け

 今年も行ってきました年末恒例の「スルメイカの沖漬け」作り。自宅近くの日本海じゃないよ。太平洋の三陸海岸、岩手県は山田町まで車で片道5時間もかけて行くんだから小西もバカだねえ。何故、わざわざアイスバーンの峠道二か所をハラハラしながら運転して行くかといえば、この時期、沖漬けに適した大きなイカが釣れるから、面白いからだ。山田町の漁師のNさんとは25年近くの付き合いがあり、毎年年末になると「小西さーん。今年はどうするの?」と電話がかかってくる。「お願いしまーす。出航は何時すか? 道路が悪くて時間に遅れたら、ボクにかまわず出航して下さい」と返事するのも毎年同じだ。

1227日、秋田は猛吹雪で岩手との県境を越えるまで時間がかかり、今回は6時間かけてやっと漁師さん宅に到着。自宅前に係留している10トンの漁船で午後3時に出航した。乗り込むのは船頭とその弟の機関士、助っ人の乗組員。全員地元の山田町で長年にわたって漁師をやってきた大ベテランだ〈ちなみに全員70歳以上〉。先の大震災の時は地震直後に兄弟で乗り込み、全速力で湾内から外海へ危機一髪の大脱出。沖で2日間過ごしたという。それまで十数隻あった山田湾のイカ釣り漁船は震災後残ったのは、この船を含め2隻のみ。こんな船にボクは乗り込んだのだ。

 太平洋に面した山田町は積雪はまったくないものの、沖の風は顔を針でチクチク刺すように冷たい。なぜそんな中でわざわざ寒風に耐えながらもスルメイカを釣り、「沖漬け」を作りに行くのか? それなりの理由はある。12月中旬から下旬、冬至の前後に三陸一帯で釣れるスルメイカは「冬至のスルメ」と呼ばれ、夏に釣れる「夏イカ」より身は厚くゴロ〈肝〉も大きくなっている。特にゴロはパンパンに太り、このゴロこそが「沖漬け」の味を大きく左右すると小西は思っている。日本海の夏イカでも作ってみたが、「冬至のスルメ」で作ったものとはまったく勝負にならない。

 といっても、この時期の大きなイカは自動イカ釣り機にはなかなか食いつかない。しかし漁師の操る手釣りの仕掛けにはバンバン食いついてくる。要するに、技が必要となる。ここが面白いのだ。この手釣りで使う仕掛けは今は亡き山田町の職人が作ったもので、現在は作り手がいない。ボクに言わせると、ただの金属棒にイカ針を付けただけの単純なものに見えるが、長さ、重さ、バランスが微妙なのだという。船頭と弟は作り手がいなくなることを見越して大量に仕入れて番屋に保管していたのだが、仕掛けは大震災で番屋ごと流されて、船に積み込んでいたものだけがのこった。船頭は震災後、真っ先に瓦礫の中からこの仕掛けを必死になって探したが、結局1本も見つからず。今は超貴重品になってしまった。

 昨シーズンまでは小西もこの仕掛けを使わせてもらっていたが、万が一、大きなイカがかかったショックで仕掛けを失うと大変なので、今シーズンは釣り具屋で市販されている普通の仕掛けを使うことにした。

 海上が薄暗くなってくると、発電機が回って集魚灯に灯りがともる。と同時に自動イカ釣り機がグルグルグルグル動き始める。たまに小さいイカがぽつぽつ揚がるが、大きいイカは釣れてこない。ところで普通スーパーなどで売っている大きいイカは1箱20匹入りのクラスのものが多い。小西が沖漬け用とするのは1箱12匹もしくは15匹いりのもの。とにかく、見た目に大きいイカをタレの入った容器にぶち込むのである。ついでに言っておくが、大きいイカは、はっきり言って刺身で食べても身は硬いだけで美味しいとは思わない。刺身で食べるなら、なるべく小さいサイズがいい。大きくて身の厚いイカは生干し、もしくは沖漬けが適していると思う。

ボクが乗船する前日は約100箱の水揚げがあったという。一番多いのは20入り。次いで25入り、12入りと15入りはそう多くはない。まあ一晩で2000匹以上のイカを釣った見当になる。このうち手釣りで揚げたものは約8割。ほとんどは3人が寒風吹きすさぶ甲板に立ち、仕掛けを操り釣ったものだ。ちなみに小西が昨シーズン乗船した時は80箱の水揚げ。ボクでも手釣りで10箱分〈約200匹〉は釣ったと思う。「小西さん、今日は調子よかったねえ」と船頭に誉められたものだ。

今回は最悪だった。最初から機械にはほとんどこない。それではと、いつものように集魚灯の灯りを暗くして機械をストップ。全員で手釣りを始めたが、ベテランにもほとんどこない。普通、集魚灯を暗くするとイカは水面近くまで浮上してきて手釣りの仕掛けにばんばん食いつくのだが、浮上してきた気配はまったくなし。それでも3人の漁師さんはたまに沖漬けに適した大きなイカが釣れると「小西さん、ほら、これ入れなんせ」と放り投げてよこす。ポツポツと沖漬けの容器にイカが入り始めた。タレは醤油、酒、みりんを適当に入れたもの。イカは容器の中でこのタレを吸い込むとギュッ、ギュッと鳴きながら苦しそうにタレを吐き出すので、タレが飛び散らないように、すぐに容器にふたをする。これの繰り返しだ。苦しみながら絶命したイカの足〈ゲソ〉はくるりと丸まっている。たまに市販されている沖漬けの中には足がだらりと伸びたものがあるが、あれは死んだイカをタレに漬けただけのもので、小西に言わせると沖漬けではない。生きたイカをすぐにタレに入れてこそ、本当の沖漬け。死んだイカを入れたものは、ただのイカの醤油漬けだ。

一回目の手釣りは全員惨敗だった。また一から出直しとばかりに集魚灯を再び明るくして、機械を動かす。この間、乗組員は船室で1時間ほど休憩。再び灯りを暗くして機械をストップし、二回目の手釣りが始まった。しかしベテラン連中でもなかなか釣れない。こうなれば小西はお手上げ。どうもイカが船の周囲に集まっていないようだ。そのうち風が強くなってきて、波しぶきが飛んでくる。イカは釣れないし、寒さと風が厳しい。寒さより何より、釣れない方が堪える。

午前0時前、「今日はもうだめだべ」と船頭の一言で操業打ち切り。前日までは釣れていたが、小西が乗ったらこれだもんな。申し訳ない。そういえば以前、小西は船頭の奥さんに「嵐を呼ぶ男」と笑われたことがある。小西が乗ればシケになる。「小西さんはシケを連れてくるからなあ」と機関長にも言われた。確かに小西が乗る時は風が強くなる日が多いと思う。

結局、沖漬けの容器に1215入りの大きなイカを40匹ほど詰め込み、箱詰めしたのは6箱。お土産に15入り1箱と25入り1箱を貰ったので漁協に出荷したのはたったの4箱。大きいイカは小西がほとんど貰ったことになる。漁師の皆さん、ゴメンナサイ。今シーズンの年末のイカ釣りは大不漁に終わってしまった。

容器に入れた沖漬けは秋田の庭の雪の中に埋め、味がしみ込むまで寝かせ、その後は冷凍保存中。市販のいいかげんな沖漬けでも1パイ700円近くはするから、小西の作った正直な沖漬けはどう安く見積もっても浜値で1000円はすると思っている。まあ、といっても、売ったことはない。あっちの友達に分け、こっちの彼女に配り、家族でたべるのは3、4匹程度。小西は余裕もないのに、何やってんだろね。バカだね。 

 

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大震災で岸壁が沈下し、大潮になると船の管理が難しくなるという

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自動イカ釣り機を動かし、船室で休む

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立派なイカでしょ。この容器2コにびっしりイカを入れた

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共食いでキズ付いたイカ。これは売り物にならない

 

エゾシカ

 首都圏在住、野蛮人の友だちが北海道にエゾシカを撃ちに行くと聞いた。すかさずワタクシは「立派な角をもったおじいちゃんじゃなく、かわいいバンビも撃ってね」とお願いした。とかくテッポ撃ちは大物を仕留めて自慢したがるものだが、食材として評価すれば年をとった大物よりも若い方がおいしいに決まっている。マトンよりラムというように、子どもの肉の方が柔らかいからね。

 さてその野蛮人は何頭仕留めたかは分かりませんが「コニシの野郎、面倒な注文しやがって」と見事バンビも仕留めたようでございます。「まだ角が短くて発情前だから、お兄さんバンビだな」と野蛮人。かわいそうに、お兄さんバンビは一度もメスと合体することなく、あの世に旅だった。

 首都圏のライフルを撃つ野蛮人たちは金と暇にあかせて射撃場に通うので射撃が上手。だからバンビ君は一発で首を撃ち抜かれ(ネックショットと言うらしい)、苦しむことなく旅だったのはよかった。

 昨日。北海道直送、お兄さんバンビの肉半頭分が我が家に届いた。首を撃ち抜いているので、肉はまったく傷んでいない。しかも骨をきれいに外している。ありがとう野蛮人さん。この作業が大変なんだよね。

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 さっそく夕飯でステーキとシチューにしていただいた。さすがバンビ。肉は秋田弁でいうところの「しね」ぐはなかった。「しね」とは「噛み切れないほど筋っぽい」というニュアンス。これだったら、いろんな料理に使えそうだ。

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 約10キロの肉の塊はビンボ人にとって嬉しい贈り物だ。友だちにも分け、残りは冷凍庫に直行。金がない時はバンビの肉が我が家にとって貴重なタンパク源になりそうだ。ありがとう、首都圏の野蛮人さん。お礼にカモを飛ばしてやるからね。