ものとりの日々

秋田市在住・小西一三の書きたいこと書くブログ

漁師廃業? なんてこったい!

 小西は漁船に乗って漁の様子を見るのが大好きだ。今まで日本海の底引き漁船やノドグロの延縄、マグロの定置網、紅ズワイガニの籠漁、ヌタウナギの籠漁、ミズダコのタコ箱漁、イカ釣り漁などなど、あまた多くの漁船に乗せてもらい、漁の様子を取材してきた(実際ほとんどは漁の様子を見ながら酒を飲んでいた)。

 これらの中で一番多く乗ったのはイカ釣り漁船。九州や北海道、岩手や青森などから秋田沖にやってくる各地方のイカ釣り漁船に10回以上は乗っている。時にはカッパを着て手伝いをし、朝水揚げした後は船内で一緒に酒も飲んだ。こうなれば、もう友だちだ。秋田沖の夏イカの季節は「小西さーん、○○丸ですよー。明日の朝5時、秋田に入港しますよー」なんて船舶電話がよくかかってくる。入港時間に港に行くと「やーやー久しぶり。朝ご飯、食べて行きなよ」と誘われ、船内の狭い食堂で食事をしながら漁の話をあれこれ。帰りにはイカをたんまり土産として貰ってくる。そんな多くのイカ釣り漁師の中で一番付き合いが長いのは岩手県山田町の漁師のNさんで、25年以上になる。船は第十八稲荷丸、9.9トンの小型漁船だ。

 20年ほど前から秋田沖にはやって来なくなったが、地元の三陸の海でイカはもちろん、イルカのつきん棒漁、タラやマスの延縄、ウニやアワビ漁など一年を通してさまざまな漁を行なってきた腕のいい漁師だ。秋田に来なくなってからは小西が山田町まで毎年のように出かけ、船に乗ったり番屋で酒を飲んで泊まったりと、今も大変お世話になっている。

 4年前の東日本大震災で山田町も大きな被害を受け、Nさんの家族とも1週間ほど連絡がつかなく心配した。9日目にやっと連絡がつき、震災から10日目の3月21日にはお見舞いの品物を積んで山田に行ってきた。道沿いには瓦礫が散乱し、道路にはヘドロも堆積していた。船は津波が来る直前に沖に逃げて無事。半分壊れかかった岸壁に係留されていた。震災直前、山田湾には16隻のイカ釣り漁船があったというが、津波に飲み込まれるなどして、無事だった船はたったの2隻。その中の1隻が稲荷丸だ。

 「あの日は急いで船に乗って沖に逃げようとしたけど、湾の出口はすさまじい潮の流れで、大きな渦巻きができたのす。エンジン全開でも船はまったく前に進まない。もうダメかと思った。偶然沖に向かう潮に乗れたから助かったけどなあ」と船頭のNさんと弟の機関士。兄弟はカップ麺をすすりながら2昼夜沖で過ごしたという。

 自宅も高台にあり無事だったが、海沿いにある倉庫兼番屋は流されて、集魚灯も自動イカ釣り機も含めてその他全ての漁具を失ってしまった。Nさんは「もう70歳も過ぎてしまったし、今さら借金をして機械を買うのもしんどいので、沖の漁は止める」と力なく語っていた。一緒にいた奥さんも「よその人は頑張れ、頑張れって言うけど、もう年だし頑張らなくてもいいからとお父さんには言ってるのよ」と言い切った。

 それから半年後、「小西さーん、なんとか機械を買って10月から漁を始めるから。また、いつでも乗りに来てよー」と嬉しい連絡があった。実は小西は年末になると車で片道5時間かけて山田町までイカ釣りに行くのが恒例行事になっていた。狙いは「冬至のスルメ」だ。冬至の頃の三陸沖のスルメイカは大型で身が厚く、ワタ(肝)もパンパンに張り、塩辛や沖漬け、生干しを作るには最適のイカだ。ただし、冬至の頃の大きいイカは機械にはなかなか食いつかない。

 こうなれば手釣りの技で勝負する。「なんぼコンピューター制御の自動イカ釣り機でも、人間の技には負けるなあす、フフフ」とNさんは手釣りの技と道具を自慢したものだ。実際、機械がなんとか1パイ釣り上げる間に高齢の乗組員は10〜20パイは釣り上げるのだから、その差は歴然だ。

 12月の三陸沖は冷たい風が吹き荒れる。カッパの下にはセーターを重ね着し、頭には毛糸の目出し帽。そんな格好で、揺れる甲板の上から棒状の疑似針3本直結の仕掛けを投げ入れ、一晩中、腕を動かし続けるのはかなりしんどい。疑似針には胴長30センチ近くの大型のイカが次々にかかり、3本全てにイカがかかった時の重さもかなりのものだ。小西でも200パイ近くは釣るが、Nさんら本職の漁師は小西の数倍は釣る。釣ったイカの一部は沖漬けにしたり、生干しに加工して持ち帰る。

 沖漬けは容器に醤油と酒、味醂を入れ、その中に釣った直後のスルメイカをぶちこむ。イカはタレを吸い込み、「キュッ、キュッ」と鳴きながら苦しそうにタレとスミを吐き続けるが、やがて絶命する。

 自宅に持ち帰った沖漬けは容器ごと庭の雪の中に埋め、低温でじっくり味を染み込ませる。約3日後、身がアメ色になったところで容器から揚げ、ビニール袋に入れて冷凍庫へぶち込み、やっと完成となる。毎年、50パイ近くの沖漬けを作っているが、家族の口に入るのはほんのわずか。ほとんどは友だちや知り合いに配ってしまうからだ。

 秋田市から太平洋沿岸まで雪道を5時間走り、寒風吹きすさぶ海の上で鼻水を垂らしながらイカを釣り、再び雪道を5時間走ってなんとか自宅までたどり着く。「容易でねえ、しんどい、疲れる。今年はどうしようかなあ」と言いながら、ほぼ毎年山田通いを続けてきた小西は本当にバカである。

 

 ところが、ところがである。今年から山田に行かなくてもいいことになった。いや行けなくなってしまったのだ。先日Nさんから電話がかかってきた。

 「小西さん、船がやっと売れたから。漁師を廃業したけど、山田には遊びに来てよ」

なんてこったい。実は去年から船が売れたら漁師を廃業したいという話は聞いていた。「年々、身体がしんどくなってきた。夜通しイカ釣って、箱に氷を敷いて、イカを並べて、港に水揚げ。誰か1人でも若い者がおれば楽だけど、私ら3人の平均年齢は73歳。もう限界だなあ」。

 山田町はかつて「イカの町」と呼ばれたほどイカ釣り漁業が盛んで、湾内には数十隻のイカ釣り漁船が係留されていたという。それが震災前には16隻、震災後には2隻、そして残りはたった1隻になってしまった。その1隻でさえ、いつまで漁を続けるかは分からない。

 Nさんには2人の息子がいるが、誰も漁師を継がずサラリーマンになった。Nさんも漁業の将来には悲観的で、子どもたちには漁師を継げとは言えなかったという。

 船は隣り町の漁師に売却が決まり、多少改造して今後はタラ延縄漁船として使われることになったそうだ。

 近々、山田町まで出かけて漁師さんたちと酒を飲みながら二十数年にわたるお付き合いの反省会をしたいと思っている。 

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